ID Bar
About us headline
沿  革
創生期(明治期)| 小網代移転〜関東大震災(大正期)| 震災復興〜太平洋戦争(昭和戦前)| 戦後〜現在 

関東大震災の直前には,ジョルダン,モーリッシュ,テネント,ドリーシュと次々に欧米研究者が実験所を訪れていた(上左のサイン)が,震災後しばらくは海外からの来訪者も途絶え,寂しい日々が続いていた.しかし,1926年(大正15年)秋に東京で開かれた第3回汎太平洋学術会議の折には,エクスカーションの一つとして多くの人々が油壺を訪れ,久々の賑いになった(下右).

この一行がやってきた頃には実験所も一応大地震以前の姿に戻っていた.また,改造とまではいかないが,1926年(大正15年)暮近くに石油エンジン式吸水ポンプが初めて設置され,翌1927年(昭和2年)には動力用電力が入り,1930年(同5年)にやっと電話が通じるなど,ようやく近代化が進みはじめていた.

その頃の実験室を写した珍しい絵葉書がある.机ごとにしきりが設けられており,学生実習の光景と思われる.第2次世界大戦が終わるまで三浦半島一帯は軍の要塞地帯で,明治時代末以来カメラの持込みも自由にはならず,また窓を通してでも屋外が写っている写真の公表は,この絵葉書でわかるように,軍の許可が必要だった.これは親睦団体の臨海倶楽部の発行.同クラブは1910年(明治43年)に創立されたが,当時は絵葉書まで出す活躍ぶりだったらしい.
実験所を訪れた欧米研究者のサイン:左,1922-1923年(大正11-12年);右,1926年(同15年). 臨海倶楽部発行の実験室風景絵葉書.

1927年(昭和2年),大島正満博士が実験所の嘱託として着任,ついで1930年(同5年)以後は恵利 恵嘱託(1937年助教授,1943年退職)に代わった.いずれも,常駐して諸事を取りしきる役目だったが,とくに恵利嘱託は吉井楢雄助手とともに水族館・実験所本館の新築に大きい役割を果たした.

一方,採集人の方も,1927年(昭和2年)に新しく出口重次郎(重さん)が加わった(下右写真).彼は熊さんに厳しく仕込まれ,まもなく名実ともに熊さんを継ぐ名採集人として,実験所に欠かせぬ人となる.

下左に掲げたのは,その頃の所員や学生,若手研究者の写真(椙山正雄名大名誉教授蔵)で,当時をしのぶ数少ない資料である.
1928年(昭和3年)12月の動物学科前期冬期学生実習:前列左より,椙山正雄,古川晴男,冨田軍二,沼野井春雄,川口四郎,浅見市造,大川真澄,青木熊吉の諸氏;後列左より,吉井楢雄助手,大島正満嘱託,大島広教授(九大・東大兼任),尾田方七,横山丈夫,山田常雄の諸氏. 採集人,出口重次郎氏;1963年撮影
(中央公論社蔵).

谷津所長の夢だった実験所の改造は関東大震災のために大幅に遅れたが,1932年(昭和7年)にまず,鉄筋コンクリート造2階建の水族館(112坪=370m2)が完成して公開された.階下は水族室,階上は標本室だったが,関東初の本格的水族館とあって大評判となり,年に10万人を超える人々がやってきて,油壺の観光地化に拍車をかけることとなった.下左の写真は,その新水族館と明治以来の木造実験棟が同居している過渡期の珍しい絵葉書である.

一方,実験所本館の方はやや遅れて,1936年(昭和11年)4月にようやく竣工した.これも鉄筋コンクリート造の2階建で,延べ309坪(=1016m2),階下12室,階上13室,地階3室の堂々たる建築であり,内部も実験的研究に適する近代的研究設備を備えていた.このとき,明治以来の木造実験棟は1棟を除いて撤去された.この本館はそれ以来約70年を経た現在まで,内部が多少改造されたほかはほとんど姿を変えずに使用されている.また,1棟だけ残された木造研究棟も今日まで健在で,近年は長期滞在者用宿舎となっている.
1932年(昭和7年)に建った新水族館と木造の実験棟. 1936年(昭和11年)完成の実験所本棟正面。写真の左端には,撤去寸前の木造棟が少しばかり顔をのぞかせている.

所長就任以来一貫して実験所の大改造を計画してきた谷津教授だったが,待望の新実験棟の完成後まもなく,1938年(昭和13年)には定年の日を迎える.跡を継いだ田中茂穂教授も1年で定年,1939年(昭和14年)に岡田 要教授が5代目の所長となった.実験形態学の泰斗だった岡田教授の就任で実験所は新しい時代に入るかと思われたが,不幸なことに,1937年(昭和12年)には日中戦争が勃発しており,すでに平和な時代は終わっていた.

1941年(昭和16年)に太平洋戦争に突入すると,研究者の来訪も稀になる.物資も不足し,ビーカーを壊したら新品は買えず,薬品や写真器材は無くなればそれまでだった.そして1945年(昭和20年)2月,実験所はついに海軍に接収されて特攻用特殊潜航艇の基地となってしまい,菊池健三助教授(1943年赴任)たちは機器や図書の疎開に骨身をけずらなければならなかった.軍が代替として建造した小網代の木造の小屋はとても使いものにならなかった上,もう研究どころではなく,みな油壺を去り,実験所は重さん独りが守ることになった.その重さんは,戦況の悪化で荒れる一方の将兵,のちには敗戦で心がすさびきった人々,進駐してきた米軍兵士などを相手にして,文字どおり生命を賭けたことが何度もあったという.
実験所接収の代替として海軍が建てた小屋:これは1982年撮影の写真で,もとはほぼ倍の大きさ.

1945年(昭和20年)8月15日,日本は降伏,その月末には米軍が実験所を接収するとの知らせが入った.それを重さんから伝えられた團 勝磨東大講師は,日米両軍の折衝の場に立ち合うとともに,接収にやってくる将兵たちに,本来は科学研究施設であるこの場所を破壊しないでほしいとの書き置きを実験所の扉に残した(“The last one to go”「最後に立ち去る者より」と署名したこのメッセージは,いまウッズホール臨海実験所に飾られている).その要望どおり建物は破壊されなかったが,接収の運命は免れず,進駐した兵士たちにより,水族館に残されていた美しい標本の多くが持ち去られたり,壊されたりした.実験所創始以来の苦難の時期であった.

接収解除はその年の大晦日.翌年3月に米軍が撤収すると,さっそく人々は実験所の復旧に努めたが,後片付けだけで1年近くを要した.窓ガラスは海軍がみな青ペンキを塗っていて,まずそのペンキを剥ぎ落すことから始めなければならなかった.こうして何とか研究も再開可能になったが,学生や所員のなかには戦地から永遠に戻らぬ者もあった.また,疎開と戦後の復旧に心身を使い果たした菊池助教授は,教授昇格の直後,1949年(昭和24年)春に世を去った.そのあとに冨山一郎助教授(1960年,教授)が実験所に赴任,1952年(昭和27年)に第6代所長となった.
米軍の進駐に際して團 勝麿講師が残した書置き.“The last one to go,”

前のページへ < |3| > 次のページへ