1. 創生期(明治期)
2. 小網代移転~関東大震災(大正期)
3. 震災復興~太平洋戦争(昭和戦前)
4. 戦後~現在
5. 略年表
6. 歴代所長一覧

 

 

1. 創生期(明治期)】

 三崎周辺は生物学の宝庫と昔からいわれてきた.地形の変化に富む上,相模湾の深所も間近にひかえ,また黒潮の動物もやってくるからだが,その豊かさに初めて気付いたのは,東大医学部の博物学教授だったデーデルラインであった.彼は1881年(明治14年)暮に日本を離れたが,入れ替わりに帰国して東大理学部動物学教授となった箕作佳吉にその知識が伝えられたらしく,箕作はその翌年から数回三崎に足を運ぶ.そして1884年(明治17年)春,ここを動物学の拠点にしようと,臨海実験所の建設を決意して石川千代松助教授を派遣し,やがて三崎の宿「紀の国屋」の主人の斡旋で,北条湾に面する三崎町入船の幕府船番所跡が敷地として選ばれたのである.土地の入手は翌年,官報によれば1886年(明治19年)6月より建設にかかり,落成は同年12月13日.翌1887年(明治20年)4月1日に「帝国大学臨海実験所」と正式に命名された(1886年に東大は帝国大学と改称).敷地わずか70坪(230m2),建坪53坪の木造2階建で,実験室1,採集品仕分室1,標本室1,図書室1,寝室2の小規模なものではあったが,ウッズホールやプリマスの実験所より一足早いスタートだった.なお箕作は実験所の建設に際して,かつて訪れたナポリ臨海実験所のアントン・ドールン所長に何回も手紙を出して助言を仰いだが,一方同僚飯島 魁教授の協力も大きかった.

箕作佳吉 教授:初代所長(1898-1904)
三崎町時代の臨海実験所

 箕作教授の目論見は当り,実験所が開設されると周辺の豊かな動物相についての研究が次々と現われ,それを基礎に本邦の動物学は独り立ちしはじめた.新種や稀種もあいついで採集され,三崎は欧米の動物学者の注目するところとなった.その折,実験所にとって幸運だったのは,名採集人青木熊吉,「熊さん」を得たことである.青木は三崎の漁師として育ち,相模湾を自宅の庭同然に知り尽していたとともに,操船と採集に巧みだった.とくに,古来の漁法である「延縄」を利用して深海産のガラス海綿やウミユリを採る腕前は,右に出る者が無かった.箕作教授のナマコ,飯島教授のガラス海綿の研究などは,熊さんなしでは実現しなかったにちがいないのである.

創立直後の実験所はイギリス人の貿易商,アラン・オーストンにも助けられた.アマチュアのナチュラリストでもあった彼は,愛用のヨット「ゴールデン・ハインド」号で相模湾を乗り回し,ドレッジで得た動物をしばしば実験所に寄贈(ミツクリザメはその一例),またヨットに研究者を同船させるなど,協力を惜しまなかった.船を持たぬ実験所にとって,オーストンの好意がどんなに救いになったかわからない.

採集人:青木熊吉氏(1898-1904)
アラン・オーストン氏

 明治20年代も半ばを過ぎると,三崎の町の発展で実験所近辺の海が汚れてきた.また,建物が狭いため来訪希望者を収容しきれない場合も生じてきた.そこで実験所は,三崎の町の北方2km,油壺湾に面する小網代の現在地に移転することになったのである.この場所は戦国時代に三浦一族の居城だった新井城(荒井城)の跡で,北条早雲の包囲により三浦道寸,荒次郎父子が討死して落城して以来,亡霊が出るとて人々が寄り付かぬ閑静な場所であったし,海岸線の変化に富む点でも入船の実験所よりはるかに優れていた.事実,移転後に数多くの新種や珍種が新たに発見されている.

 新たに入手した土地は2800坪(9200m2),1897年(明治30年)9月に移転工事に入り,三崎町から2階建の実験棟をそっくり運んで再建したほか,平屋建の1棟(35坪=116m2)を新設,さらに新井城本丸跡に宿舎1棟(64坪=210m2)を建てた.これは,十数年前までクラブ室,食堂,台所などに使用されていた部分に当たる.竣工は同年年末,学生たちは早速やってきて新年を新実験所で迎えた.

それまで実験所には所長も所員も置かれていなかったが,移転から1年後の1898年(明治31年)12月に制度が整えられ,箕作佳吉教授が初代所長(~1904年)に,土田兎四造が初代助手に任命された.また,青木熊吉はこれより先,同年1月に正式の採集人となっている.

油壷移転後の実験所(手前は荒井浜)
諸磯側より、手前は油壷湾

2. 小網代移転~関東大震災(大正期)】

 実験所の油壺移転後は,欧米の研究者もしばしば実験所を訪問するようになり,長期間滞在して研究した人々も少なくなかった.とくにアメリカのディーンは1900-01年(明治33-34年)と1905年(明治38年)に実験所に滞在して魚類を研究し,実験所にヨット1隻(荒井丸)と宿舎1棟(通称ディーン屋敷,最近まで使用されていた)を寄贈したことで知られる.また,1900年(明治33年)にはアメリカからジョルダンが三崎を訪れ,220種の魚類を採集,うち25種を新種として記載した.1901年(同34年)にはロシアからシュミット,1904年(同37年)には,ドイツからドフラインが来所,1906年(同39年)にはアメリカの海洋調査船アルバトロス号に乗り組んでいたスナイダーとギルバートも実験所を訪れた(右の写真).ややのちの1913年(大正2年)にはケリコット,翌年には棘皮動物の研究者モルテンセン,1916年(同5年)には,E.N.ハーヴェイ,E.B.ハーヴェイ夫妻も来所している.

1901年(明治34年)夏の実験所滞在者 前列左端より,ディーン教授,岡 精一氏(画家),ディーン夫人,土田兎四造氏,シュミット教授.後列右端,谷津直秀氏;右から3人目,青木熊吉氏
1906年(明治39年)ディーン屋敷で撮影. 左より,箕作夫人,箕作教授,ギルバート博士,飯島教授,箕作教授の娘さん(上野益三 京大名誉教授蔵)

 1915年(大正4年)には,「道寸丸」(12トン)が進水した.外洋にも出られる船を持つという実験所創設以来の夢がかなったのだが,実際には伊豆大島辺までしか航海できずにお荷物となり,早くも1923年(大正12年)には払い下げられてしまった.

 なお,明治末期,養殖真珠の研究が実験所で行われていたことも付け加えておこう.西川藤吉と藤田輔世・昌世の兄弟が主役で,飯島所長も陰の力になり,養殖場も設けられていたが,その研究が真円真珠の完成につながったことを知る人は少ない.

拡張工事後の実験所. 右上,宿舎; 左下,研究棟;  右下,油壺湾側からの遠望
採集船「道寸丸」

 飯島魁教授は,箕作教授の死去(1909年=明治42年)という困難ななかで,実験所の拡張を成功させ,実験所および動物学教室の中枢として多くの研究者を育てるとともに,1918年(大正7年)には名著『動物学提要』を世に送った.これを読むと,本邦動物学にとって三崎の実験所が果たした役割がいかに大きかったかがよくわかる.しかし,同教授は1921年(大正10年)に急逝,谷津直秀教授が跡を継いで第3代所長に就任した.谷津教授は動物学への実験的手法の導入をかねてから主張しており,所長就任の翌年1923年(大正12年)の春にはそれに沿った実験所改造案を作成した.同年7月には初めて電灯もともってランプの時代はようやく終わりを告げ,いよいよ近代化への第一歩が踏み出されるかにみえた.

飯島 魁 教授:第2代所長(1904-1921)
谷津直秀 教授:第3代所長(1922-1938)

 だが皮肉にも,その9月1日に関東大震災が襲った.実験所は壊滅状態になり,もはや改造どころではなくなってしまった.幸い所員一同は無事だったし,火事も生じなかったが,貴重な標本と実験器具類が多数破損し,建物の幾つかは半壊状態となってしまった.当時の岡田 要助手のように数年間の研究成果を無にしてしまった人もあった.さらに悪いことには,付近一帯が1m隆起したため,磯もかつての豊かさを失ったのである.

関東大震災による被害:船付場へ通じる道脇の崖崩れ
関東大震災による被害:半壊状態の宿舎

3. 震災復興~太平洋戦争(昭和戦前)】

 関東大震災の直前には,ジョルダン,モーリッシュ,テネント,ドリーシュと次々に欧米研究者が実験所を訪れていたが,震災後しばらくは海外からの来訪者も途絶え,寂しい日々が続いていた.しかし,1926年(大正15年)秋に東京で開かれた第3回汎太平洋学術会議の折には,エクスカーションの一つとして多くの人々が油壺を訪れ,久々の賑いになった.

 この一行がやってきた頃には実験所も一応大地震以前の姿に戻っていた.また,改造とまではいかないが,1926年(大正15年)暮近くに石油エンジン式吸水ポンプが初めて設置され,翌1927年(昭和2年)には動力用電力が入り,1930年(同5年)にやっと電話が通じるなど,ようやく近代化が進みはじめていた.

 その頃の実験室を写した珍しい絵葉書がある.机ごとにしきりが設けられており,学生実習の光景と思われる.第2次世界大戦が終わるまで三浦半島一帯は軍の要塞地帯で,明治時代末以来カメラの持込みも自由にはならず,また窓を通してでも屋外が写っている写真の公表は,この絵葉書でわかるように,軍の許可が必要だった.これは親睦団体の臨海倶楽部の発行.同クラブは1910年(明治43年)に創立されたが,当時は絵葉書まで出す活躍ぶりだったらしい.

実験所を訪れた欧米研究者のサイン 左,1922-1923年(大正11-12年);右,1926年(同15年)
臨海倶楽部発行の実験室風景絵葉書

 1927年(昭和2年),大島正満博士が実験所の嘱託として着任,ついで1930年(同5年)以後は恵利恵嘱託(1937年助教授,1943年退職)に代わった.いずれも,常駐して諸事を取りしきる役目だったが,とくに恵利嘱託は吉井楢雄助手とともに水族館・実験所本館の新築に大きい役割を果たした.

 一方,採集人の方も,1927年(昭和2年)に新しく出口重次郎(重さん)が加わった.彼は熊さんに厳しく仕込まれ,まもなく名実ともに熊さんを継ぐ名採集人として,実験所に欠かせぬ人となる.

 下左に掲げたのは,その頃の所員や学生,若手研究者の写真(椙山正雄名大名誉教授蔵)で,当時をしのぶ数少ない資料である.

1928年(昭和3年)12月の動物学科前期冬期学生実習
前列左より,椙山正雄,古川晴男,冨田軍二,沼野井春雄,川口四郎,浅見市造,大川真澄,青木熊吉の諸氏;後列左より,吉井楢雄 助手,大島正満 嘱託,大島広 教授(九大・東大兼任),尾田方七,横山丈夫,山田常雄の諸氏.
採集人,出口重次郎氏 1963年撮影(中央公論社蔵)

 谷津所長の夢だった実験所の改造は関東大震災のために大幅に遅れたが,1932年(昭和7年)にまず,鉄筋コンクリート造2階建の水族館(112坪=370m2)が完成して公開された.階下は水族室,階上は標本室だったが,関東初の本格的水族館とあって大評判となり,年に10万人を超える人々がやってきて,油壺の観光地化に拍車をかけることとなった.下左の写真は,その新水族館と明治以来の木造実験棟が同居している過渡期の珍しい絵葉書である.

 一方,実験所本館の方はやや遅れて,1936年(昭和11年)4月にようやく竣工した.これも鉄筋コンクリート造の2階建で,延べ309坪(=1016m2),階下12室,階上13室,地階3室の堂々たる建築であり,内部も実験的研究に適する近代的研究設備を備えていた.このとき,明治以来の木造実験棟は1棟を除いて撤去された.この本館はそれ以来約70年を経た現在まで,内部が多少改造されたほかはほとんど姿を変えずに使用されている.また,1棟だけ残された木造研究棟は,長期滞在者用宿舎として利用されていたが,2011年の火災により焼失した.2018年4月には,この跡地に採集作業棟が建設され,利用されている.

1932年(昭和7年)に建った新水族館と木造の実験棟
1936年(昭和11年)完成の実験所本棟正面
写真の左端には,撤去寸前の木造棟が少しばかり顔をのぞかせている.

 所長就任以来一貫して実験所の大改造を計画してきた谷津教授だったが,待望の新実験棟の完成後まもなく,1938年(昭和13年)には定年の日を迎える.跡を継いだ田中茂穂教授も1年で定年,1939年(昭和14年)に岡田要教授が5代目の所長となった.実験形態学の泰斗だった岡田教授の就任で実験所は新しい時代に入るかと思われたが,不幸なことに,1937年(昭和12年)には日中戦争が勃発しており,すでに平和な時代は終わっていた.

 1941年(昭和16年)に太平洋戦争に突入すると,研究者の来訪も稀になる.物資も不足し,ビーカーを壊したら新品は買えず,薬品や写真器材は無くなればそれまでだった.そして1945年(昭和20年)2月,実験所はついに海軍に接収されて特攻用特殊潜航艇の基地となってしまい,菊池健三助教授(1943年赴任)たちは機器や図書の疎開に骨身をけずらなければならなかった.軍が代替として建造した小網代の木造の小屋はとても使いものにならなかった上,もう研究どころではなく,みな油壺を去り,実験所は重さん独りが守ることになった.その重さんは,戦況の悪化で荒れる一方の将兵,のちには敗戦で心がすさびきった人々,進駐してきた米軍兵士などを相手にして,文字どおり生命を賭けたことが何度もあったという.

実験所接収の代替として海軍が建てた小屋:これは1982年撮影の写真で,もとはほぼ倍の大きさ.

 1945年(昭和20年)8月15日,日本は降伏,その月末には米軍が実験所を接収するとの知らせが入った.それを重さんから伝えられた團勝磨東大講師は,日米両軍の折衝の場に立ち合うとともに,接収にやってくる将兵たちに,本来は科学研究施設であるこの場所を破壊しないでほしいとの書き置きを実験所の扉に残した(“The last one to go”「最後に立ち去る者より」と署名したこのメッセージは,いまウッズホール臨海実験所に飾られている).その要望どおり建物は破壊されなかったが,接収の運命は免れず,進駐した兵士たちにより,水族館に残されていた美しい標本の多くが持ち去られたり,壊されたりした.実験所創始以来の苦難の時期であった.

 接収解除はその年の大晦日.翌年3月に米軍が撤収すると,さっそく人々は実験所の復旧に努めたが,後片付けだけで1年近くを要した.窓ガラスは海軍がみな青ペンキを塗っていて,まずそのペンキを剥ぎ落すことから始めなければならなかった.こうして何とか研究も再開可能になったが,学生や所員のなかには戦地から永遠に戻らぬ者もあった.また,疎開と戦後の復旧に心身を使い果たした菊池助教授は,教授昇格の直後,1949年(昭和24年)春に世を去った.そのあとに冨山一郎助教授(1960年,教授)が実験所に赴任,1952年(昭和27年)に第6代所長となった.

米軍の進駐に際して團 勝麿 講師が残した書置き.“The last one to go,”

4. 戦後~現在】

 太平洋戦争勃発後に閉鎖された水族館は1947年(昭和22年)に再開,その頃から実験所にも再び研究者が訪れはじめた.しかし,研究資材はまだ乏しかったし,来訪者は食料を持参しなければならない時代が続いた.採集船もなかった.戦前活躍した「イサオ」は海軍に接収された後に沈没,その代わりの船も米軍により破壊されてしまっていた.團ジーン博士が米軍にかけあってやっとボロ船を手に入れ,当座をしのいだのである.皮肉にも,数年間手付かずの自然だけが豊富で,また米軍が沈めた特殊潜航艇が引き上げられたときは,珍しい動物が多数付着していて,みな大喜びした.

 実験所が落ち着きを取り戻したのは昭和20年代も末近くである.戦後の惨憺たる状態からそこまで立ち直ったのは,所長以下,当時の教員および職員(写真)が一丸となってたゆまずに努力しつづけたからこそだった.そしてその上に,実験所は新たな繁栄の時代を迎えた.昭和30年代に入ると,最新鋭の機器も揃えられ,実験所を実験的生物学の拠点とするという谷津教授の念願がようやくかなえられたのである.

 続く木下治雄所長(1967-1972)のもとでも設備の充実が進んだが,他方では水族館の閉鎖という事態を迎えた.隣接のマリンパークなど民間の水族館が次々と誕生した余波を受け,1970年(昭和45年)の秋を最後に長い歴史を閉じたのである.1932年(昭和7年)の開館以来38年,1909年(明治42年)の水族室公開以来61年であった.

日本での位相差顕微鏡初号機。
団ジーン博士が1948年(昭和23年)に戦後初めて帰国した折りに、当時アメリカで発売されたばかりの機種を購入し臨海実験所に持ち帰ったもの。この顕微鏡で精子先体反応の発見等が行われた。
日光への実験所教職員旅行,1958年(昭和33年)11月;
所員以外にも,長期滞在の研究者が参加している.

 小林英司所長の時代(1972-1975)には,透過型電子顕微鏡も入り,採集船「オベリア」(1959年建造)に代わる「臨海丸」も進水した.だが,この頃はレジャー時代を迎えて周辺の開発が急速に進み,海の汚染が深刻化して貴重な生物は打撃を受けはじめていた.小林長所はこの状態を憂慮して,近辺の生物相の報告書を刊行するとともに,機会あるごとに自然の保護を訴え,実験所自身にも排水浄化装置を備えるなど,諸対策を講じた.

 次の寺山宏所長(1975-1982)のもとで実験機器の充実はさらに進んだが,新たな難問も生じた.1980年(昭和55年),油壺・諸磯両湾を緊急避難港にするため,湾口に防波堤を築くことを神奈川県が計画したのである.だが,そうなると湾内の生物相は壊滅的な打撃を蒙ってしまう.そこで実験所はもとより,内外多数の生物学者が計画の再検討を求めて立ち上がったが,折衝は難航,ようやく計画を縮小することで決着がつぎ,最悪の事態だけは避けられた.

 一方,新しい試みの三崎セミナーが始まったのは寺山所長時代である.第1回は1978年(昭和53年),そのテーマは「発生~受精・分裂・増殖・分化」であった.以来このセミナーは2~3年おきに開かれて活発な交流の場となっており,今後一層の発展が期待されている.また,特筆すべきことは水野丈夫所長の時代,1987年(昭和62年)4月に本臨海実験所創立100年を記念して全国規模で海洋生物学百年記念式典が皇太子殿下,同妃殿下(当時)の御臨席のもとに挙行されたことである.高橋景一所長の時代には全国の大学の理学部学生が受講できる公開臨海実習が始まった.

初代「臨海丸」(3.22トン)
1973年建造、1996年廃船。
1987年(昭和62年)5月、三崎臨海実験所創立100周年を記念して、皇太子殿下(現天皇陛下)御夫妻が臨海実験所を御来訪されたときの様子。

 環境保全の努力は続けられているものの,宅地化を含む開発は進む一方で,近隣の磯や浜の生物相は,かつての豊かさから程遠くなってしまっている.幸い,本邦動物学の原点となった相模湾深所はまだ磯ほど荒れてはいないようだが,楽観はできない.今後の実験所の大きな課題の一つは,世界に誇る最大の財産だった周辺の自然を回復することにある.

 また,実験所内の問題としては,十数年前から建物の老朽化に手を打つことが必要になっていた.そこでまず1976年(昭和51年)に,鉄筋2階建の学生用新宿泊棟(717m2,ベッド室10,和室3)が完成,木造の宿舎は油壺移転以来の長い歴史を閉じた.ついで,所員宿舎も建て替えられた.そして実験所本館の改造が最後に残され,木下清一郎所長(1982-1986),水野丈夫所長(1986-1988),高橋景一所長(1988-1992)のもとで予備折衝が続けられてきた.この計画は,森沢正昭所長(1992-2004)のもとでその実現に向けて,新井城跡の発掘調査,RI施設設置,海の環境保全等に関する漁業組合との協議が行われ,近代的な研究設備(大型飼育水槽室,実験水槽室,遺伝子実験施設,RI施設,分子生物学実験室,細胞培養室,低温実験室,シールド室など)を備えた新研究棟が1992年10月に着工され,1993年9月29日に完成し、新営というかたちで実現した.また,取壊しが予定されていた本館,水族標本室も改築がほどこされ,新たに記念館,水族標本館として臨海実習等の教育のために利用されることとなった.1996年には,1973年以来活躍していた「臨海丸」(3.22トン)にかわり,2,000mのワイアーを備えたウインチなどの設備を持つ“新”「臨海丸」(17トン)が進水し,浅海から深海に至る生物の研究が可能になった.更に,1998年には外国人講師を招へいして,国際シンポジウム“The International Symposium on the Molecular and Cell Biology of Fertilization”および国際公開臨海実習が行われ,研究教育のソフト面での充実が図られた.2004年には赤坂甲治現所長を迎え,老朽化が進む記念館の再改修を進めた。さらに機構改革も推し進め,2009年より筑波大学下田臨海センターと共同で海洋生物学推進機構(JAMBIO)を設立し,共同研究・共同利用拠点として海洋基礎生物学を推進する運びとなった.

新実験研究棟開所式。1993年(平成5年)9月。秋篠宮御夫妻をお迎えして行われた。
1998年(平成10年)7月に行われた国際シンポジウム “The International Symposium on the Molecular and Cell Biology of Fertilization” の参加者。

 日本でもっとも古く,また世界でも有数の歴史をもつ三崎臨海実験所は,こうして新たな装いのもとに創立120周年を迎え,さらなる発展を志向しつつ,21世紀に歩みを進めつつある.

 

 

 

5. 略年表

1877(明10) 東京大学理学部動物学教室創立
E.モース,来日 大森貝塚を発見する(6月)
東京大学理学部動物学教室初代教授となる(7月)
江の島に漁師小屋を借り,臨海実験所を設立(7月-8月)
日本政府に恒久的臨海実験所の建設を勧告
1879(明12) モース, 東大教授の任満ち一時帰国
1881(明14) デーデルライン, 三崎を訪れて生物の豊かさに気づく
1882(明15) 箕作佳吉動物学教授, 石川千代松を連れて三崎で実習
1883(明16) 箕作, 石川ら, 三崎に滞在して採集
1884(明17) 箕作,三崎に実験所建設の方針を立てる
1885(明18) 三崎町入船の海関(船番所)跡地を入手
1886(明19) 12月13日 実験所落成
1887(明20) 4月1日「帝国大学臨海実験所」として正式発足
1888(明21) ウッズホール,プリマス両臨海実験所開設
1897(明30) 実験所,小網代の現在地(油壺)に移転
1898(明31) 8月 第1回臨海実習会
12月 箕作,初代所長となる
1909(明42) 水族棟完成し,無料公開
1910(明43) 拡張工事完成
1915(大 4) 「道寸丸」進水
1923(大12) 7月 電灯ともる
8月 関東大震災
1927(昭 2) 動力用電力来る
1928(昭 3) 水族飼養槽を増設し,有料で公開.
1930(昭 5) 電話開通
1932(昭 7) 水族館完成
1936(昭11) 実験所本館完成
1937(昭12) 日中戦争勃発
1939(昭14) 最後の臨海実習会(第24回)
1941(昭16) 太平洋戦争勃発
1945(昭20) 2月 海軍に接収され,特殊潜航艇基地となる.実験所は小網代の小屋に移転.
8月15日 敗戦
9月 米軍進駐
1946(昭21) 3月 米軍撤収
1947(昭22) 水族館の観覧を再開
1951(昭26) 『東京大学理学部附属臨海実験所年報』発行開始
1954(昭29) “Contributions from the Misaki Marine Biological Station” 第1集刊行
1959(昭34) 「オベリア」進水
1973(昭48) 「臨海丸」進水
1976(昭51) 新宿泊棟完成
1978(昭53) 第1回三崎セミナー
1987(昭62) 三崎臨海実験所創立百周年記念式典ならびに王子国際セミナー
1991(平 3) 第1回公開臨海実習
1993(平 5) 新実験研究棟竣工
1996(平 8) “新”「臨海丸」進水
1998(平10) 国際シンポジウムが三崎で開催される.国際公開臨海実習開講.
2007(平19) 三崎臨海実験所創立120周年記念式典
2009(平21) 東京大学直属の機構として海洋基礎生物学研究推進センターが発足
筑波大学下田臨海センターと共同で海洋生物学推進機構(JAMBIO)を設立

 

 

6. 三崎臨海実験所 歴代所長一覧

  氏名 在任期間
初代 箕作 佳吉(Kakichi MITSUKURI) 1898-1904
2 飯島 魁(Isao IJIMA) 1904-1921
3 谷津 直秀(Naohide YATSU) 1922-1938
4 田中 茂穂(Shigeho TANAKA) 1938-1939
5 岡田 要(Yo K. OKADA) 1939-1952
6 冨山 一郎(Itiro TOMIYAMA) 1952-1967
7 木下 治雄(Haruo KINOSHITA) 1967-1972
8 小林 英司(Hideshi KOBAYASHI) 1972-1975
9 寺山 宏(Hiroshi TERAYAMA) 1975-1982
10 木下 清一郎(Seiichiro KINOSHITA) 1982-1986
11 水野 丈夫(Takeo MIZUNO) 1986-1988
12 高橋 景一(Keiichi TAKAHASHI) 1988-1992
13 森澤 正昭(Masaaki MORISAWA) 1992-2004
14 赤坂 甲治(Koji AKASAKA) 2004-2017
15 岡 良隆(Yoshitaka OKA) 2017-