明治20年代も半ばを過ぎると,三崎の町の発展で実験所近辺の海が汚れてきた.また,建物が狭いため来訪希望者を収容しきれない場合も生じてきた.そこで実験所は,三崎の町の北方2km,油壺湾に面する小網代の現在地に移転することになったのである.この場所は戦国時代に三浦一族の居城だった新井城(荒井城)の跡で,北条早雲の包囲により三浦道寸,荒次郎父子が討死して落城して以来,亡霊が出るとて人々が寄り付かぬ閑静な場所であったし,海岸線の変化に富む点でも入船の実験所よりはるかに優れていた.事実,移転後に数多くの新種や珍種が新たに発見されている.
新たに入手した土地は2800坪(9200m2),1897年(明治30年)9月に移転工事に入り,三崎町から2階建の実験棟をそっくり運んで再建したほか,平屋建の1棟(35坪=116m2)を新設,さらに新井城本丸跡に宿舎1棟(64坪=210m2)を建てた.これは,十数年前までクラブ室,食堂,台所などに使用されていた部分に当たる.竣工は同年年末,学生たちは早速やってきて新年を新実験所で迎えた.
それまで実験所には所長も所員も置かれていなかったが,移転から1年後の1898年(明治31年)12月に制度が整えられ,箕作佳吉教授が初代所長(〜1904年)に,土田兎四造が初代助手に任命された.また,青木熊吉はこれより先,同年1月に正式の採集人となっている.
|
|
油壺移転後の実験所(手前は新井浜).
|
(諸磯側より,手前は油壷湾)
|
|