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沿  革
三崎周辺は生物学の宝庫と昔からいわれてきた.地形の変化に富む上,相模湾の深所も間近にひかえ,また黒潮の動物もやってくるからだが,その豊かさに初めて気付いたのは,東大医学部の博物学教授だったデーデルラインであった.彼は1881年(明治14年)暮に日本を離れたが,入れ替わりに帰国して東大理学部動物学教授となった箕作佳吉にその知識が伝えられたらしく,箕作はその翌年から数回三崎に足を運ぶ.そして1884年(明治17年)春,ここを動物学の拠点にしようと,臨海実験所の建設を決意して石川千代松助教授を派遣し,やがて三崎の宿「紀の国屋」の主人の斡旋で,北条湾に面する三崎町入船の幕府船番所跡が敷地として選ばれたのである.土地の入手は翌年,官報によれば1886年(明治19年)6月より建設にかかり,落成は同年12月13日.翌1887年(明治20年)4月1日に「帝国大学臨海実験所」と正式に命名された(1886年に東大は帝国大学と改称).敷地わずか70坪(230m2),建坪53坪の木造2階建で,実験室1,採集品仕分室1,標本室1,図書室1,寝室2の小規模なものではあったが,ウッズホールやプリマスの実験所より一足早いスタートだった.なお箕作は実験所の建設に際して,かつて訪れたナポリ臨海実験所のアントン・ドールン所長に何回も手紙を出して助言を仰いだが,一方同僚飯島 魁教授の協力も大きかった.
箕作佳吉教授:初代所長(1898-1904)
三崎町時代の臨海実験所

箕作教授の目論見は当り,実験所が開設されると周辺の豊かな動物相についての研究が次々と現われ,それを基礎に本邦の動物学は独り立ちしはじめた.新種や稀種もあいついで採集され,三崎は欧米の動物学者の注目するところとなった.その折,実験所にとって幸運だったのは,名採集人青木熊吉,「熊さん」を得たことである.青木は三崎の漁師として育ち,相模湾を自宅の庭同然に知り尽していたとともに,操船と採集に巧みだった.とくに,古来の漁法である「延縄」を利用して深海産のガラス海綿やウミユリを採る腕前は,右に出る者が無かった.箕作教授のナマコ,飯島教授のガラス海綿の研究などは,熊さんなしでは実現しなかったにちがいないのである.

創立直後の実験所はイギリス人の貿易商,アラン・オーストンにも助けられた.アマチュアのナチュラリストでもあった彼は,愛用のヨット「ゴールデン・ハインド」号で相模湾を乗り回し,ドレッジで得た動物をしばしば実験所に寄贈(ミツクリザメはその一例),またヨットに研究者を同船させるなど,協力を惜しまなかった.船を持たぬ実験所にとって,オーストンの好意がどんなに救いになったかわからない.
採集人,青木熊吉氏
アラン・オ一ストン氏

明治20年代も半ばを過ぎると,三崎の町の発展で実験所近辺の海が汚れてきた.また,建物が狭いため来訪希望者を収容しきれない場合も生じてきた.そこで実験所は,三崎の町の北方2km,油壺湾に面する小網代の現在地に移転することになったのである.この場所は戦国時代に三浦一族の居城だった新井城(荒井城)の跡で,北条早雲の包囲により三浦道寸,荒次郎父子が討死して落城して以来,亡霊が出るとて人々が寄り付かぬ閑静な場所であったし,海岸線の変化に富む点でも入船の実験所よりはるかに優れていた.事実,移転後に数多くの新種や珍種が新たに発見されている.

新たに入手した土地は2800坪(9200m2),1897年(明治30年)9月に移転工事に入り,三崎町から2階建の実験棟をそっくり運んで再建したほか,平屋建の1棟(35坪=116m2)を新設,さらに新井城本丸跡に宿舎1棟(64坪=210m2)を建てた.これは,十数年前までクラブ室,食堂,台所などに使用されていた部分に当たる.竣工は同年年末,学生たちは早速やってきて新年を新実験所で迎えた.

それまで実験所には所長も所員も置かれていなかったが,移転から1年後の1898年(明治31年)12月に制度が整えられ,箕作佳吉教授が初代所長(〜1904年)に,土田兎四造が初代助手に任命された.また,青木熊吉はこれより先,同年1月に正式の採集人となっている.
油壺移転後の実験所(手前は新井浜).
(諸磯側より,手前は油壷湾)

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