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沿  革

太平洋戦争勃発後に閉鎖された水族館は1947年(昭和22年)に再開,その頃から実験所にも再び研究者が訪れはじめた.しかし,研究資材はまだ乏しかったし,来訪者は食料を持参しなければならない時代が続いた.採集船もなかった.戦前活躍した「イサオ」は海軍に接収された後に沈没,その代わりの船も米軍により破壊されてしまっていた.やっと團ジーン博士が米軍にかけあってボロ船を手に入れ,当座をしのいだのである.皮肉にも,数年間手付かずの自然だけが豊富で,また米軍が沈めた特殊潜航艇が引き上げられたときは,珍しい動物が多数付着していて,みな大喜びした.

実験所が落ち着きを取り戻したのは昭和20年代も末近くである.戦後の惨憺たる状態からそこまで立ち直ったのは,所長以下,当時の教員および職員(写真)が一丸となってたゆまずに努力しつづけたからこそだった.そしてその上に,実験所は新たな繁栄の時代を迎えた.昭和30年代に入ると,最新鋭の機器も揃えられ,実験所を実験的生物学の拠点とするという谷津教授の念願がようやくかなえられたのである.

続く木下治雄所長(1967-1972)のもとでも設備の充実が進んだが,他方では水族館の閉鎖という事態を迎えた.隣接のマリン・パークなど民間の水族館が次々と誕生した余波を受け,1970年(昭和45年)の秋を最後に長い歴史を閉じたのである.1932年(昭和7年)の開館以来38年,1909年(明治42年)の水族室公開以来61年であった.
日本での位相差顕微鏡初号機。団ジーン博士が1948年(昭和23年)に戦後初めて帰国した折りに、当時アメリカで発売されたばかりの機種を購入し臨海実験所に持ち帰ったもの。この顕微鏡で精子先体反応の発見等が行われた。 日光への実験所教職員旅行,1958年(昭和33年)11月;所員以外にも,長期滞在の研究者が参加している.

小林英司所長の時代(1972-1975)には,透過型電子顕微鏡も入り,採集船「オベリア」(1959年建造)に代わる「臨海丸」も進水した.だが,この頃はレジャー時代を迎えて周辺の開発が急速に進み,海の汚染が深刻化して貴重な生物は打撃を受けはじめていた.小林長所はこの状態を憂慮して,近辺の生物相の報告書を刊行するとともに,機会あるごとに自然の保護を訴え,実験所自身にも排水浄化装置を備えるなど,諸対策を講じた.

次の寺山 宏所長(1975-1982)のもとで実験機器の充実はさらに進んだが,新たな難問も生じた.1980年(昭和55年),油壺・諸磯両湾を緊急避難港にするため,湾口に防波堤を築くことを神奈川県が計画したのである.だが,そうなると湾内の生物相は壊滅的な打撃を蒙ってしまう.そこで実験所はもとより,内外多数の生物学者が計画の再検討を求めて立ち上がったが,折衝は難航,ようやく計画を縮小することで決着がつぎ,最悪の事態だけは避けられた.

一方,新しい試みの三崎セミナーが始まったのは寺山所長時代である.第1回は1978年(昭和53年),そのテーマは「発生〜受精・分裂・増殖・分化」であった.以来このセミナーは2〜3年おきに開かれて活発な交流の場となっており,今後一層の発展が期待されている.また,特筆すべきことは水野丈夫所長の時代,1987年(昭和62年)4月に本臨海実験所創立100年を記念して全国規模で海洋生物学百年記念式典が皇太子殿下,同妃殿下(当時)の御臨席のもとに挙行されたことである.高橋景一所長の時代には全国の大学の理学部学生が受講できる公開臨海実習が始まった.
初代「臨海丸」(9トン)。1973年建造、1996年廃船。 1987年(昭和62年)5月、三崎臨海実験所創立100周年を記念して、皇太子殿下(現天皇陛下)御夫妻が臨海実験所を御来訪されたときの様子。

環境保全の努力は続けられているものの,宅地化を含む開発は進む一方で,近隣の磯や浜の生物相は,かつての豊かさから程遠くなってしまっている.幸い,本邦動物学の原点となった相模湾深所はまだ磯ほど荒れてはいないようだが,楽観はできない.今後の実験所の大きな課題の一つは,世界に誇る最大の財産だった周辺の自然を回復することにある.

また,実験所内の問題としては,十数年前から建物の老朽化に手を打つことが必要になっていた.そこでまず1976年(昭和51年)に,鉄筋2階建の学生用新宿泊棟(717m2,ベッド室10,和室3)が完成,木造の宿舎は油壺移転以来の長い歴史を閉じた.ついで,所員宿舎も建て替えられた.そして実験所本館の改造が最後に残され,木下清一郎所長(1982-1986),水野丈夫所長(1986-1988),高橋景一所長(1988-1992)のもとで予備折衝が続けられてきた.この計画は,森沢正昭所長(1992-2004)のもとでその実現に向けて,新井城跡の発掘調査,RI施設設置,海の環境保全等に関する漁業組合との協議が行われ,近代的な研究設備(大型飼育水槽室,実験水槽室,遺伝子実験施設,RI施設,分子生物学実験室,細胞培養室,低温実験室,シールド室など)を備えた新研究棟が1992年10月に着工され,1993年9月29日に完成し、新営というかたちで実現した.また,取壊しが予定されていた本館,水族標本室も改築がほどこされ,新たに記念館,水族標本館として臨海実習等の教育のために利用されることとなった.1996年には,1973年以来活躍していた「臨海丸」(9トン)にかわり,2,000mのワイアーを備えたウインチなどの設備を持つ“新”「臨海丸」(17トン)が進水し,浅海から深海に至る生物の研究が可能になった.更に,1998年には外国人講師を招へいして,国際シンポジウム“The International Symposium on the Molecular and Cell Biology of Fertilization”および国際公開臨海実習が行われ,研究教育のソフト面での充実が図られた.2004年には赤坂甲治現所長を迎え,老朽化が進む記念館の再改修を進めた。さらに機構改革も推し進め,2009年より筑波大学下田臨海センターと共同で海洋生物学推進機構(JAMBIO)を設立し,共同研究・共同利用拠点として海洋基礎生物学を推進する運びとなった.

新実験研究棟開所式。1993年(平成5年)9月。秋篠宮御夫妻をお迎えして行われた。 1998年(平成10年)7月に行われた国際シンポジウム"The International Symposium on the Molecular and Cell Biology of Fertilization"の参加者。

日本でもっとも古く,また世界でも有数の歴史をもつ三崎臨海実験所は,こうして新たな装いのもとに創立120周年を迎え,さらなる発展を志向しつつ,21世紀に歩みを進めつつある.


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