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沿  革
創生期(明治期)| 小網代移転〜関東大震災(大正期)| 震災復興〜太平洋戦争(昭和戦前)| 戦後〜現在 
実験所の油壺移転後は,欧米の研究者もしばしば実験所を訪問するようになり,長期間滞在して研究した人々も少なくなかった.とくにアメリカのディーンは1900-01年(明治33-34年)と1905年(明治38年)に実験所に滞在して魚類を研究し,実験所にヨット1隻(荒井丸)と宿舎1棟(通称ディーン屋敷,最近まで使用されていた)を寄贈したことで知られる.また,1900年(明治33年)にはアメリカからジョルダンが三崎を訪れ,220種の魚類を採集,うち25種を新種として記載した.1901年(同34年)にはロシアからシュミット,1904年(同37年)には,ドイツからドフラインが来所,1906年(同39年)にはアメリカの海洋調査船アルバトロス号に乗り組んでいたスナイダーとギルバートも実験所を訪れた(右の写真).ややのちの1913年(大正2年)にはケリコット,翌年には棘皮動物の研究者モルテンセン,1916年(同5年)には,E.N.ハーヴェイ,E.B.ハーヴェイ夫妻も来所している.
1901年(明治34年)夏の実験所滞在者.前列左端より,ディーン教授,岡 精一氏(画家),ディーン夫人,土田兎四造氏,シュミット教授.後列右端,谷津直秀氏;右から3人目,青木熊吉氏
1906年(明治39年)ディーン屋敷で撮影.左より,箕作夫人,箕作教授,ギルバート博士,飯島教授,箕作教授の娘さん(上野益三京大名誉教授蔵)

1910年(明治43年),臨海実験所の大拡張工事が完成したが,これは東京帝大農科大学(現農学部)の水産学科開設に伴う措置であった.拡張の指揮をとったのは1904年(明治37年)に第2代所長に就任した飯島 魁教授で,1908年(明治41年)に隣接地約7000坪(=23,000m2)を買収,ただちに大改造に取りかかった.まず,三崎町時代からの2階建実験棟を反対側の崖下に移して標本室棟とし,従来の平屋建実験棟を増築,また新たに平屋建実験棟1棟(現在の外人用宿舎)と水族飼育棟1棟を建て,宿舎も増築した.もちろん水族飼育棟は研究のための設備だったが,見学希望者には無料で観覧を許した.上から覗きこむ式の飼育槽ばかりだったが,参観者は相当多数にのぼったという.また,この拡張のとき実験所背後の山上に発電用の風車を作ったが,これはアイディア倒れで,結局役立たずに終わった.

1915年(大正4年)には,「道寸丸」(12トン)が進水した.外洋にも出られる船を持つという実験所創設以来の夢がかなったのだが,実際には伊豆大島辺までしか航海できずにお荷物となり,早くも1923年(大正12年)には払い下げられてしまった.

なお,明治末期,養殖真珠の研究が実験所で行われていたことも付け加えておこう.西川藤吉と藤田輔世・昌世の兄弟が主役で,飯島所長も陰の力になり,養殖場も設けられていたが,その研究が真円真珠の完成につながったことを知る人は少ない.
拡張工事後の実験所.右上,宿舎;左下,研究棟;右下,油壺湾側からの遠望.
採集船「道寸丸」.

飯島 魁教授は,箕作教授の死去(1909年=明治42年)という困難ななかで,実験所の拡張を成功させ,実験所および動物学教室の中枢として多くの研究者を育てるとともに,1918年(大正7年)には名著『動物学提要』を世に送った.これを読むと,本邦動物学にとって三崎の実験所が果たした役割がいかに大きかったかがよくわかる.しかし,同教授は1921年(大正10年)に急逝,谷津直秀教授が跡を継いで第3代所長に就任した.谷津教授は動物学への実験的手法の導入をかねてから主張しており,所長就任の翌年1923年(大正12年)の春にはそれに沿った実験所改造案を作成した.同年7月には初めて電灯もともってランプの時代はようやく終わりを告げ,いよいよ近代化への第一歩が踏み出されるかにみえた.

飯島 魁教授:第2代所長(1904-1921)
谷津直秀教授:第3代所長(1922-1938)
だが皮肉にも,その9月1日に関東大震災が襲った.実験所は壊滅状態になり,もはや改造どころではなくなってしまった.幸い所員一同は無事だったし,火事も生じなかったが,貴重な標本と実験器具類が多数破損し,建物の幾つかは半壊状態となってしまった.当時の岡田 要助手のように数年間の研究成果を無にしてしまった人もあった.さらに悪いことには,付近一帯が1m隆起したため,磯もかつての豊かさを失ったのである.
関東大震災による被害. 左:船付場へ通じる道脇の崖崩れ 右:半壊状態の宿舎.


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